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大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。 | |||||
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「私が研究を始めたころ」 東京女子医科大学医学部生化学講座教授 中村 史雄 |
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1997年頃、Yale大学医学部神経学、Stritmatter研の研究室にて |
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私は1988年に岡山大学医学部を卒業しました。医学部在学中から基礎系科目により興味を持っていたことと、当時は教科書を読んでもいまひとつ納得できなかった様々な生理学的機構を説明する分子や細胞内情報伝達機構が、ちょうど卒業する頃に次々と明らかにされる状況を目にして、基礎系への進学を決めました。 その年の4月に東京大学の医学系大学院に進みました。大学院生向けのガイダンス当日は季節外れの積雪で、新雪をまとった満開の桜とぬかるんだ足下、しかも解剖学講座の廣川教授が入学したての大学院生に「とにかくグラントを取れ!」と激を飛ばされ、「いやはや、とんでもないところに来てしまった。」と感じたことを今でも思い出します。 東大では脳研生化学の芳賀達也教授の下でGタンパク質の解析を行いました。分子生物学実験は額田敏秀先生に知識と技術も含めて基礎から教えて頂きました。両先生の丁寧な実践型レクチャーは、今でも少人数で研究を指導する時の礎にしております。 最初は新規Gタンパク質のcDNA配列決定です。その頃のシーケンスはサンガー法が主流で、32P標識、巨大なゲル、オートラジオグラフィを組み合わせたものです。各ステップを極めて丁寧に行わないとシーケンスが読めないという厳しい世界でしたが、振り返ると実験手技の向上に繋がったように思います。その後1994年に米国留学した時には、シーケンスは既に大学専用施設への外注となっていました。ところが2000年に日本に戻ってくると医学部共用のシーケンサーを自分で使うというもので、技術革新をシステムとして取り入れる米国と、ただハードだけを導入する日本の差を、何とももどかしく感じました。それで新規のGタンパク質ですが、論文でつけた名称は結局のところ広まらず、今ではGqとかG11と呼ばれています。 さてシーケンスの次は組換えタンパク質を作って生化学実験をやります。人間リボソームってやつですね。ところが大量発現系だとGqタンパク質は凝集するので、シャペロン役もやらなければいけません。なんとかできたGqを使って、試験管内でムスカリンm1受容体、Gq、ホスホリパーゼCβで再構成したところ、確かにアゴニスト刺激でIP3が生成しました。これでやっと受容体(GPCR)、Gタンパク質、効果器だけで2nd messengerへの転換ユニットを形成することを実感でき、これも論文にすることができました。 この頃からより個体レベル、特に神経回路形成における分子の機能に興味を持ち始めました。そこで米国東海岸にあるYale大学医学部のStephen M Strittmatter先生のラボに行くことにしました。当時、ボスはまだ駆け出しのAssistant Professorでラボも7名、ボスとボスの父、テクニシャン1名、私を含めたポスドク3名、大学院生1名(高橋琢哉先生 現・横浜市立大教授)と小規模なものでした。仕事は神経回路形成に関わるガイド分子Sema3Aの受容体探しです。最初はGPCRの想定で探していましたが、全く異なる分子のニューロピリンが受容体として他のラボから報告されて、小さなラボが大きな方向転換を迫られました。それでもその後、この7名でSema3Aの情報伝達機構をいろいろ明らかにすることができ、なんとか生き残ったというところです。 留学で最も勉強になったのは、研究に対する発想の深さと多様性でしょうか。ボスはMD, PhDで神経内科医も兼任していましたが、有機化学やタンパク質分子構造に詳しく、その知識をベースにした仮説と実験系の構築にはいつも圧倒されていました。またYale大学を訪れる客員教授の講演も、印象深いものが多くRoger Tsien先生がGFPを使ったFRETの話をされた時は、その発想の背景にあたる知識や原理も含めて強い衝撃を受けました。確かに今では日本も欧米も研究環境は大差ないかもしれません。しかし欧米の第一線で活躍している研究者の広い学識や発想においてはまだ学ぶべきものが多いように感じます。特にその発想を実際の研究や実験に落とし込んでいくプロセスは、優れた研究者のラボでのみ体験できることで、それが駆け出しの研究者が成長するための一番のトレーニングかと思います。 Yale大学ではキャンパス内でコンサートが頻繁に開催されており、時々早めに仕事を終わらせてホールまで歩いていくという、今にして思えば贅沢な日々を過ごしていました。そのような豊かな環境も研究を進める上では大事なことと今更ながら感じております。 【略 歴】
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