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大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。 | |||||
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『結局、人と人の出会いが、人生を決める。』 千葉大学医学部長・医学研究院長(H25.4.1~) 横須賀 收 (消化器・腎臓内科学教授) |
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![]() Summers博士来日の際の千葉県鋸山散策にて (左から筆者、Summers教授、奥田名誉教授、小俣前東大教授、今関千葉大教授、奥田国際医療福祉大学教授夫妻) |
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何故、この道を通ってきたのか、考えてみるとわからない。いろいろな偶然でこの道を進んできたのだろうと思う。 私が医学の道に進んだ大きな理由は父が開業医だったからだと思う。子供のころから、真夜中に起こされて、自転車で往診に出かけていく父の後姿をみていると、仕事とはいえ大変だったろうと思う。昔、小学生の頃、作文で夜往診に行く父が世の中の人のためにやっていて偉いと思うという作文を書いたら、父はそんな大層なものでないさと、少し恥ずかしそうにいっていたことを思い出す。 父は孝、伯父は重信、叔父は誠之という名前なので、祖父は論語が好きだったのだろう。父は水戸の近くの出身だったけど、忠君愛国かというと、そんなことはないリベラルな人だったと思う。しかしながら、生活とかは厳格で贅沢は嫌いだった。私が中学生の頃にまず初めに面白く読んだのが、下村湖人の論語物語だったのは不思議な巡り合わせだった。それ以来、何十冊も論語の注釈書を読んだけれど、自慢ではないけど、未だに論語知らずではある。ただ、孔子と弟子の子路や子貢や顔回達との交わりを思うと不思議に感情が激してしまうのだ。特に、虚飾のなかで華美な葬式をするよりも、君ら弟子たちに手を取ってもらって死ぬほうが良いという言葉など、何と温かいアカデミアだったのだろうと思う。教育とはこのような環境が理想と思う。 大学生時代は、良い友人に恵まれたことが何よりだった。多くの畏友、尊敬する友人がいた。また、その頃は千葉大学には岡林教授、大谷教授はじめ、錚々たる先生方がいらして、印象に残る話をお聞きした。病理の岡林先生は自分が研究の場として戻っていけるHistion(臓器組織を意味する造語?)というものを持つように教えられた。また、桑田教授に微生物をやらないかと誘われてうれしかったが、果たして自分が基礎で生きていけるか自信がなかった。不思議な縁で、後々、私はウイルス研究に戻ってくることになっていたのだった。もっと勉強しておけばよかったと今にして思う。 卒業してどこに入局するかというときは、外科は長時間手術をすると腰が痛くなるのでだめだろうと思い、基礎も不器用だからだめで、内科系しかないかと思っていた。今から考えても外科は無理だと思うけれど、ピペット操作は関係なかったのに。内科の中でも、第二内科は優秀な人の行く所で、第一内科は私のようなダメ人間でも受け入れてくれるとのことで、第一内科に入れてもらった。当時は、奥田邦雄教授が主宰されていて、肝臓と血液を専門テーマとしておられた。奥田教授は、朝から晩まで論文を書いておられ、タイプライターの音が廊下まで響いていた。当時増え始めていた肝がんや門脈圧亢進症などの本当の専門家だった。臨床的な事でも、基礎的な事でも、新しい発見をすると、実にうれしそうに、話をされていた。何かの折に、10cmくらいの幅を手で作って、某氏は論文をこの位しか読んでいないのに(我々はそんなに読んでいるのかと思うのだが)、一人前の事をいうなと言い、50cmくらいの幅を作って、このくらい自分は読んでいるのだということだった。本当に負けず嫌いな方だったと思う。奥田先生は国際派で、アジアの肝臓のためにも尽くされていたので、今も海外では奥田先生の弟子というと、一目置かれる位だ。 奥田先生は何でも自分で検査をしてみるのが大事だということを言われて、自分は金井の検査法提要に書いてある検査法を殆どやったと自慢しておられた。私は、たまたま、軽度な溶血性貧血の患者がいて、検査法提要に書いてある溶血の検査をしたら、赤血球が脆弱な遺伝性球状赤血球症との診断をつけることができて、面白かった。確か血液の先生が症例報告をしているはずだと思う。 第一内科の他の先生方の回診では当時、腎臓の東條静夫先生とか、肝組織病理の伊藤進先生らにいろいろ教えていただいた。回診では患者の前で随分質問された。恥をかくのは若いうちなので、叱られたのだと思う。 その後、各内科をローテートして、君津中央病院に出張に出た。同期が3人で、いろいろ患者さんを拝見させていただいた。当時の院長は三輪清三先生で優れた臨床家であった。また、先輩の先生方にもいろいろと面倒を見ていただいたし、いろいろな手技もさせていただいた。面白くて、私は臨床で生きていこうと思った。 その後、英国のRoyal Free Hospital 医科大学に留学したが、毎週一度のSherlock教授の肝疾患の臨床講義はとても面白かった。患者の問診とわずかな肝機能検査から診断をつけるトレーニングは大変役に立った。厳しい先生で、論文を読んでいないと馬鹿にされた。確かに知は力だと思う。 帰国後、小俣政男先生に出会ったことが、私の運の尽き(付き?)だったかもしれない。小俣先生は肝臓病理のKlatskin教授ついでPeters教授のもとで学んでこられたが、私の帰国する少し前に千葉大学に帰っておられた。その頃、アヒルの肝炎ウイルスがB型肝炎ウイルスに類似したウイルスであることがわかり、その研究を開始した。千葉県の九十九里浜に近いアヒル農場で、冬の寒空の下、アヒルの糞が厚く堆積した泥濘の中、小俣先生がアヒルを追い、私がアヒルを捕まえて、採血した。どこから採血するかの場所もわからず、またどのアヒルから採血したかもわからなくなったりして苦労した。しかしながら、残念なことに、日本のアヒルにはアヒルB型肝炎はいなかった。中国から輸入したアヒルの血液の中に、そのウイルスがいることがわかり、感染実験をして、ようやく感染様式などが解明された訳だ。その後、アヒルを使って、分子生物学的な手法を用いて、肝炎の仕事が出来るようになった。そのころ、ようやく私も尻尾から殻が取れそうになっていた。
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