大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第3回*   (H24.2.1 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は筑波大学医学群医学類 副学類長 桝 正幸 先生です。
  『二人の偉大な研究者との出会い』

      
      筑波大学医学群医学類 副学類長 桝 正幸 (医学医療系 分子神経生物学教授) 
        


大学院に入学した当時の写真。夏休みに中西研究室の旅行で海に行った。前列中央が中西重忠教授、そのすぐ後ろにいるのが筆者。同時に大学院に進学した8名、スタッフ、秘書、中西教授の家族などが写っている。

 私が京都大学医学部に入学した昭和55年(1980年)は、分子生物学の大きな波が押し寄せてくる時代でした。新聞やテレビでは、日本人研究者がインターフェロン遺伝子をクローニングした、抗体の多様性を生み出す遺伝子の組換えを発見した、ホルモン前駆体遺伝子の構造決定に成功した、と連日のように報道され、詳しいことが分からないまでも新しい時代が到来していることを肌で感じ興奮しました。分子生物学に興味を持った私は、教養課程の講義を聞いたり、科学雑誌を読んだりしましたが、研究の内容は十分に理解できず、もう少し本格的に勉強したいと考えていました。同級生も同じことを感じていたのか、1年生の終わり頃、James Watsonが書いたMolecular Biology of the Geneを輪読しようということになりました。ただ、自分達だけでは心もとないので、同志10数名で医化学講座の沼正作教授室を訪れ、誰かテューターになって頂ける先生はいませんかと相談しました。沼教授は、中西重忠助教授(この頃教授になられました)と一緒にACTH前駆体遺伝子のクローニングを発表され、分子生物学を本格的に研究されているということでしたので、教室にはきっと分子生物学に詳しい先生が沢山いらっしゃるだろうと考えたのです。沼先生は、怖い先生だと聞いていましたが、私達の話を聞いて、にこやかに「教科書で得る知識も大事だが、実際に実験をしてみないと生きた知識にはならない。実験をしながら考えることがもっと重要だ。」と諭され、実験をすることを勧められました。なるほどそういうものかと考えた私達は翌日から医化学研究室に通って実験をすることにしました。今から考えると、気軽にまず実験をやってみる機会に恵まれたのは幸運でした。また、京大医学部には、知識は無くても何か大きなことをやりたいという意欲を持った学生が多く、そのような先輩、同級生の影響を受けたことも良かったのかもしれません。一緒に沼研を訪れた同級生の多くは実験をやめてしまいましたが、私は卒業まで時間のある時は研究室に通う生活を送りました。春から夏まではボート部の合宿、秋から春は実験、翌年の春から夏はボートという日々でした。そんなわけで、まとまった仕事はできませんでしたが、遺伝子の扱い方に習熟しましたし、実験の考え方もおよそ分かるようになりました。そして、何よりの収穫は研究者の生活を間近に見ることができたことだろうと思います。沼先生は、アセチルコリン受容体、ナトリウムチャネル、カルシウムチャネル、リアノジンチャネルなど神経系で重要な遺伝子を矢継ぎ早にクローニングして、その機能を明らかにし、世界を仰天させました。1992年までの約10年間にNature誌に26報もの論文を発表されるなど、輝かしい業績をあげられましたが、残念なことに定年退官の直前に癌で亡くなられました。私が沼研に在籍した5年間はこの快進撃の前半にあたりますが、その間、研究室の様子を見て、どのようにして実験が行われ、どのようにデータが出るのか、実際に研究をしている人が何を考えてどんな生活をしているのかをつぶさに観察することができました。大変厳しい先生として有名ですが、その頃辛い思いをしながら研究していた大学院生の方々が、今では大教授として様々な分野で活躍されているのを見ると、研究者を育てることに成功されたのではないかと思います。沼先生は、よく「努力は無限ですよ。」とおっしゃいましたが、その言葉は今でも私の頭の隅に残っています。
 大学卒業後、神戸市立中央市民病院で2年間内科の研修をしました。この間、数多くのことを経験し臨床医学の面白さも分かり始めましたが、自分はやはり基礎医学の研究をしたいと考え、大学院に進学することにしました。選んだのは中西重忠教授の研究室でした。当時、受容体クローニングの画期的な方法を開発され、新しいことが次々に分かってきそうな予感がありました。また、沼研で研究していた頃に、学部生の私に親しく話しかけて、研究とは何か、どのように取り組むべきかを情熱的に話してくださったのもきっかけになりました。今をして思えば、学生を研究に取り込む力の1つは研究の魅力、もう1つは研究者の魅力なのかもしれません。この年、京大医学部卒業生8名が(内4名は卒業後直ちに)中西研に入ったことは日本中の大学で話題になったと聞きましたが、中西教授に人間を引きつける相当な力があったことは間違いありません。中西研は沼研とは多くの面で違っていました。中西教授もいざ研究のことに関しては厳しい先生でしたが、普段は気さくで楽しい先生でした。実験に関しても大きな方針は立てるものの実験の進め方は学生の自主性に任せるようなところがあり、私達は比較的自由に伸び伸びと研究することができました。失敗を恐れず何でもチャレンジしてみる気風があり、合宿所のような雰囲気の中、皆朝から晩まで楽しく実験をしていました。私自身は代謝型グルタミン酸受容体と呼ばれる神経伝達受容体をクローニングし、その後NMDA受容体のクローニングにも参戦し、中西研の一時代を切り開くことができました。中西教授の独特のセンスと直感は真似ることのできるものではありませんが、弟子達に研究に必要なものを身をもって示してくださったと思います。三つ子の魂百までと言いますが、研究でも最初に出会った師匠の影響は大きく、私は二人の素晴らしい研究者に会えたことを感謝しています。私自身も微力ながら若い人達に良い影響を与えることができればと考えています。

 
筆者略歴

1980〜1986年 京都大学医学部卒業 
1986〜1988年 神戸市立中央市民病院 内科研修医 
1988〜1992年  京都大学大学院医学研究科 博士課程 
1992〜1997年  京都大学医学部 助手 (1994〜1997年は休職)
1994〜1997年 カリフォルニア大学サンフランシスコ校
  ハワードヒューズ医学研究所 博士研究員 
1997年〜現在 筑波大学基礎医学系 教授
  (組織替えにより現在は医学医療系 教授)